警視庁剣道名誉師範 無得庵小川刀耕老居士
(小川忠太郎講演「剣と禅」人間形成の道より)
於 聖徳学園岐阜教育大学講堂s63・10・16pm1;000・

「小、中学生の剣道」
剣道をやる者は、単に名利(みょうり)の為でなく、「志(こころざし)」をたてる。道に志す(こころざす)、つまり「求道心(きゅうどうしん、ぐどうしん)」の有無、これが基本、心の根本として此処が大事です。


ところが「普勧坐禅儀」に、「原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(みちもとえんつう)、予(だれ)か修証(しゅうしょう)を仮(か)らん」、と。
道は元来円(まどか)に諸方に通じていて、修行も悟りもいらない、求道心などというものも必要ないという。


白隠禅師は自ら著作された「坐禅和讃」(ざぜんわさん)で「衆生本来佛なり」“人間は生まれながら仏性を具えている。”という。これも禅の根本原理。しかしそうではあるが、此れは一寸(ちょっと)でも(手許が)狂うと天地懸隔(てんちけんかく)、千万里の差が出ちゃう。(老居士この時、黒板の横に立てかけた木刀を手に取ると大上段に振りかぶる。老居士の全盛期からの得意技は上段からの面打ち。)

(写真は人間禅剣道「宏道会 」の創設者妙峰庵佐瀬孤唱老師墨蹟「水を掬【きく】すれば 月手に在り」)

単に名利、名声を求めることを目標、目的に生きて行く人と、そうではなく、道を求めて行く人では、いずれ(心の歴程として)千万里の差がつく。一寸(ちょっと)でも出発点に差があると、到着点では千万里の差が出来る。ここで「求道心」「真実の道とは?の問題意識」が生きてくる訳です。


先ず道にこころざす。若ければ若い程良いので、孔子は、「我れ十有五にして学に志す」、と言っておられるが、剣道も(人間形成の道として)中学一、二年位から始めるのが最適でしょう。剣道は今、小学校から試合をさせる。また中学生から試合をする。これは一面危険な思想で、下手をすると{対立、競争}の観念ばかりを助長し兼ねないマイナス点があります。単に若ければ何でもよいのではない。

「求道心」を仮に分別すると、三っつになるとして剣道では「柳生流」の「三摩の位」を採用している。

第一に「習う」良い師匠につく。
第二に「工夫する」自分で大いに疑って修行する。
第三に「鍛錬」実際に稽古する。


この三ッの鼎(かなえ)のどの一つを欠いても、剣道はものにならない。禅なら「大信根」(だいしんこん)先ず正師に就く。我も人なら彼(釈迦、達磨)も人なりとの自信を持って修行に向かう。「大疑団」狐疑心、猜疑心などでなく、大きな疑いを起こして工夫する。「大勇猛心」大憤志(自身の不甲斐なさに対する怒り)ともいう、勇猛の道心。引いては千万人といえども我ゆかんの気概。この勇猛心は後期の数息観にも直結する。

注解
天地懸隔(てんちけんかく)
天と地ほどの違い。


志(こころざし)
心の向かうところ。心にめざすところ。


志す
成し遂げようとする目標を心に決める。思い立つ。めざす。心がその方に向かう。


求道(心)
真理や宗教的な悟りを求めて、ひたすら修行すること。ぐどう。


名利(みょうり)
名聞利養、名聞と利欲。名誉と利得。


名聞(みょうもん)①世間に聞こえる名誉。世間の評判。ほまれ。②名誉をてらうこと。みえをはること。


普勧坐禅儀
道元の著書。1巻。1227年(嘉禄3)に坐禅による仏法を道俗すべての人々に勧めるために記した書。四六駢儷体で著され、道元独自の本証妙修・修証一等の禅を説く。


狐疑心
狐が臆病にもあたりを警戒して伺うような自己保身が目的のちっぽけな疑いごころ。


猜疑(心)
人をそねみうたがうこと。(以上広辞苑)


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