三重禅会 田中太玄

テレビやネットではコロナ関連でもちきりですが、身の回りでは春が通り過ぎようとしています。先日家族を連れて四日市の中心部に位置する鵜の森公園を訪れた時の写真です。桜は、いつものように咲き、満開を迎え、そしていつものように散っていきます。小生も周りに流されないそんな生き方をしたいと思います。今回は“執着というもの”と題して。

何気ない日常の中、自身の心の中で、最も厄介なものの1つに執着があると思います。小さなところでは、普段テレビをみる位置に他の家族が座っているといやですよね。大きなところでは、仕事で一生懸命作った書類に上司や関係者から否定的な意見をうけると、苦労して作った時ほどたとえその意見が正しくても、反発したり、ときに押し通そうとさえします。相手の意見のほうが筋が通っているとき、素直に“はい”と言えなかったことを後悔します。

この執着というものの厄介で、問題をこじらせる理由は、老若男女問わずほかの人から、その執着が丸見えである点です。前記の例でいえば、自分の無理筋の意見を押し通そうとしたときには、その場の自分以外のほとんどの方はすべてその状況を理解していると思います。子供といえども自分の経験からこの執着をよく知っていて、例えば相手をいじめるときに、相手のやりたいことを先取りして、怒らせます。我が家では長男が、妹をいじめる常とう手段です。

この執着を胃潰瘍か何かの様に我々の頭脳からスパッと切り取ることができれば、なんと楽になれるのか、と感じること、度々です。

しかしながら振り返ってみると執着がなければ、人間は変わりません。簡単にいえば、自分にないものに執着し、それを手に入れようと努力することで、人間は成長していくものと思います。いい大学に執着するから勉強するし、あこがれの選手に執着するから練習するし、美しい絵を描きたいから絵の練習をします。つまり執着というものは、人間が自己を成長させるために獲得した原始的な本能であるように思えてなりません。であればこそ、他人の執着が我が事のようにわかるのではないでしょうか?

ということは、我々の執着による懊悩は一生続くのでしょうか?答えはNOだと思います。最近知ったのですが、人間には、よくできたことに、執着などのような原始的な本能を統制する理性という機能が備わっているそうです。理性というのは人間の脳の中でもっとも新しい部分である前頭葉により司られ、次にすべきことを戦略的に判断する機能を担っているそうです。つまり、執着を無理に切り離すのではなく、理性によってしっかりと執着を統制することができるのだと思います。つまり執着にとらわれている人は理性の働きが弱いのだと思います。であるから、頭ではわかっていても反発してしまい、いわでものことを口に出してしまい、無用な摩擦を生んでしまうのでしょう。

つまり理性を活発に働かせることが大切なのだと思います。では、理性を活発化させるツールには何があるのでしょうか?我々人間禅は、“禅”をご提案したいと思います。禅の修行では、どんな状況であっても、自分の呼吸であったり、師家(先生)から与えられた問題に、全身全霊を傾け集中することを求められます。つまり、我々が日常かかえる問題からくる雑念を抑え、すべての念慮を修行に1点集中させます。つまり理性を鍛えるのに他ならないことを行うことになります。

一歩、一歩 歩幅は小さいですがまさに子供が成長する如く自分を成長させることができると思っています。そんなことにご興味のある方は、ぜひ人間禅津・久居道場にいらしてください。

合掌


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