警視庁剣道名誉師範 無得庵小川刀耕老居士
小川忠太郎講演「剣と禅 人間形成の道」
於 聖徳学園岐阜教育大学講堂 S63/10/16

小川先生講演第三段
天保時代に大石進がでて、身の丈(丈寸)五尺(約150cm)以上ある、こんな長い竹刀(しない)で、片手突きで、これを二年間やって、毬(まり)に百発百中当たるようになった。それでやってみると、三尺二寸(約96cm)の竹刀では、みんな突かれちゃう。当てっこではもう無敵になった。
そこで江戸に出て千葉周作とやった。千葉周作は、相手がそんな違法ならと、四斗樽の鏡(酒樽のふた)を抜いてそれを鍔にした。
これでは突くところはありゃしない。ここまでくれば、これはもう堕落です。山岡先生は、これは戯技だ。戯れだと言った。
大勢の人が真似をして、そういう長い竹刀を使うようになってきたところで、亦、行き詰まってしまった。
そのころ、徳川幕府は、武道奨励の為に、講武所を造り、男谷下総守という偉人をその長に任じた。彼は、多くの人が長竹刀だと何だとか言っている時に、長竹刀と真剣との中間をとって、講武所の竹刀の長さを、三尺八寸(約1m14㎝)に制定した。

(H24.浜松武道祭 「甲冑の武者」)

現在、我々が使っている竹刀の長さは、彼によって制定されたのである。彼自身は、三尺三寸(約99cm)の竹刀で稽古をしたのであるが、一般には三尺三寸を強要せず、多くの人にやらせようと中間をとって、三尺八寸に制定したのである。
ところが、それでもまだ、大石進の弊害が後々まで尾を引いて残ったのも事実である。三尺八、九寸の長い竹刀で、上段から片手打ちで、ポンポンと打つというようなことは、本当の剣道ではないのであるが、明治二十八年に武徳会ができた後でも、現在でも、真剣では出来ない片手打ちの技を、実際の稽古でも、試合でもやっているのである。ただ当てればいい。 だから、現代の剣道がスポーツ化しているという議論が出る。そういう技があるから、防具をつけて三尺八、九寸もの長い竹刀を持って、決められたところを打つのは、これはスポーツじゃないか?との意見には全く正当性がある。
こういうスポーツ化の蔓延の巷には、剣道の精神はない。そこで日本の精神的な剣道を残すべく全剣蓮を結成した。それで十二年前(昭和50年代)に剣道の理念を創ったのです。「剣道は、剣の理法の修練による人間形成の道である。」この指導理念は、松本敏夫さんを委員長として十人の委員で創ったのです。

(第四次川中島合戦龍虎相打つ一騎打ちの彫像。信玄側の槍の攻撃に馬が驚いて、ついに決着はつかなかった真剣勝負  「ふるとみて  笠とるひまもなかりけり 川中島の
夕立ちの雨」が記されている。)

千葉周作
幕末の剣客。北辰一刀流の祖。陸前の人。中西派一刀流などを学び、江戸に出て玄武館を開き多くの入門者を集めた。(1794〜1855)
山岡先生
山岡鉄舟 幕末・明治の政治家。無刀流の創始者。前名、小野高歩(たかゆき)。通称、鉄太郎。江戸生まれの幕臣。剣道に達し、禅を修行、書をよくした。戊辰戦争の際、西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させた。後、明治天皇の侍従などをつとめる。子爵。(1836〜1888) 以上広辞苑による。
人間禅誌『11号』“山岡鉄舟の肖像”「禅の修行」によると、以下の記述がある。
二十歳の時、居士が敬慕する槍術師範、山岡静山(高橋泥舟の兄)の急逝のあと、望まれて山岡家の養子に入り、静山
の妹、英子と結婚、英子夫人の言葉として伝えられる処によると、「居士は坐禅をしますと夜中の二時を過ぎないと寝たことがなく、時には夜を徹することも少なくなかった。」とあり、孜々兀々の苦修十二年遂に機が熟して、一日、箱根温泉入湯の折に最初の公案を透過。(中略)
後年、或るとき、某豪商から商取引の秘訣を聞き、その中に目下腐心している公案の工夫に参考となるふしが感得され「滴水和尚の、両刃鋒を交えて避くる事を須いず云々の語句と相対照し、余の剣道と交え考うる時は、その妙言うべからざるものあり。時に明治十三年三月二十五日なり。」(中略)「余の剣法や、ひたすらその技をこれ重んずるにあらざるなり、その心理の極致に悟入せんことを欲するにあるのみ、
換言すれば天道の発源を極め、あわせてその用法を弁ぜんことを願うにあり。
なお切言すれば見性悟道なるのみ。以下言うべからず。」と告白している。
男谷下総守
前述の男谷精一郎。当時剣聖と謳われ、「音なしの構え」で有名な直心影流の剣客。鉄舟19才の時、幕府講武所の師範であった千葉周作に入門するが、幕府に講武所を建白したのは、この男谷下総守。


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