「耳聞は似かず 心聞の好きに」あるいは「耳聞は心聞の好きに似かず」という七字一行は、われわれの禅の法系を宗より伝法した、大応国師の師である虚堂智愚禅師のこの「聴雪」から引用されているようである。

 雪国で暮したことのある方なら誰でもご存じのように、しんしんと雪の降り積る夜というものは、ジーンと底冷えはするが不思議と風がなく静かなものである。

そして降り積った雪をはじきかえす竹の音や、松の枝から落ちる雪の音などで、「オヤ、雪が降っているな」と気づくようなものである。

虚堂和尚は、火の気の乏しい庵室、隙間風にゆらめく燈火のもとで経巻を読誦していたが、思わず読誦をやめて、この雪の降る夜のたたずまいを独りしみじみと味わったのである。

そしてそこからこの「聴雪」と題する偈頌が生まれたのである。

こうした絶唱は吟じ来り吟じ去っていただけばそれでよいのであるが、へたな散文に移せば、底冷えする寒い夜ではあるが、風はなくひっそりとしている。雪がしんしんと降っているのであろう、時折り、積った雪をはじきかえす竹の音がしじまを破る。

思わず耳を傾けると、寒さとともに窓を打つ雪の音がひそやかに伝わってくる。

それは悠久な大自然の息吹であり、その生命の鼓動である。

この雪の夜の真趣は、肉の耳で聞いたのではとうていわからない。

心の耳で聞き肚で味わうのでなくては。

それにしても私はついこの音に聞きほれて、読みかけの経巻を中途で放り出しておったワイ。雪はいよいよ降っているらしい。

なお「松櫺(しょうれい)」とは松窓(しょうそう)のことである。


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