「耳聞は心聞の好よきに似しかず」とは、天然の妙なる音楽というものは心の耳で聞き肚で味わうべきもので、単なる肉の耳で聞いたとてそのよさはわかるものではない、という意味である。

そしてこれはひろげれば「眼見は心見の好きに似かず」というようになり、それはさらに嗅覚・味覚・触覚についてもいうことができよう。要するに物事の真趣というものは、心で深く受けとめ、肚でよく味わうのでなければ、味わいつくせないものだ、というのがこの句のねらいである。     

お茶事というものは、主客ともに眼耳鼻舌身意の六根をフルに、しかも浄らかに働かせて、色声香味触法の六境を深く味わうものであるが、真の茶人ならば単にそうした感覚的な享受だけで足れりとすべきではない、心で受けとめ肚で味わうべきであるということを、この句は教えているのである。

だが、言うところの心とは単なるいわゆる心のことではなく、肚とは腹のことではない。
としたら、それはいったい何であろうか。                     
大疑団として皆様にさしあげておきましょう。

      (芳賀幸四郎著 新版一行物 ―禅語の茶掛― 下巻より)


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