~元警視庁剣道名誉師範、小川忠太郎老居士の講演より~

元警視庁剣道名誉師範小川忠太郎講演(昭和63年10月、岐阜聖徳学園岐阜教育大学講堂に於いて)
講演テーマ「剣と禅 人間形成の道」

小川先生講演第1段

私の禅の師匠は、初めは釈宗活老師。
この老師は「禅は心なり!心とは自己なり!」。その自己に虚妄の自己と真実の自己と二つある。この通りです。

幕末の剣士島田虎之助は「剣は心なり!」。
心を二つに分けて、正しい心と邪な心、「心正しからざれば、剣正しからず。
須らく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。」同じことです。
心の本体から言えば、剣も禅も一つです。現れた形が違います。それから剣道について一つ付け加えておきますが、島田虎之助のいう「剣は心なり!」というのは、あの方は男谷先生について儒教をやっています。そこから出ている。

だから島田虎之助は、自分の剣は君子剣。儒教から出ていますから、心なり。
儒教も禅も同じということです。

【柱脚と解説】

釈宗活老師
両忘庵輟翁宗活禅師、鎌倉円覚寺第207代管長楞伽窟洪嶽宗演禅師の法を嗣ぎ、主として在家の者の教化に生涯を捧げた禅界の大宗匠。

虚妄の自己
鏡清禅師の語に『衆生顛倒(てんどう)して己に迷うて物を逐(お)う』がある。

島田虎之助
勝海舟の剣の師匠

男谷先生
幕末の直心影流の剣客、男谷精一郎、幕府講武所を建白。

儒教
儒教については鎌倉円覚寺第206代管長、今北洪川禅師の著書に儒教と禅の関係を詳述した「禅海一瀾」がある。

写真は人間禅東海坐禅道場(岐阜県関市洞戸大野)
道場の隣には達磨大師の事蹟に因んで名づけられた
臨済宗妙心寺派末寺「少林山見性寺」がある。

心の本体
達磨と2祖慧可の問答に、
慧可曰く「我が心未だ寧(やす)からず、乞う師、ために安(やすん)ぜよ。
達磨曰く「心(しん)を将(も)ち来たれ、汝(汝)がために安んぜん。」
可 良久して曰く「心(しん)を求むるに不可得(ふかとく)なり。」
磨曰く「我 汝が為に心を安んじ了(おわ)れり。」とある。(「禅宗無門関」)

不可得
「心不可得」の4字は「金剛経」にも出ている。
「金剛経」にはさらに「過去心不可得」「現在心不可得」「未来心不可得」ともある。心の本体としての「本心本性」を解決する問題提起として
「無門関」には「即今、上人(しょうにん)の性(しょう)いづれの処にか在る?」との禅公案が挙げられている。

「禅の話」(昭和36年刊)の著者、磨甎庵老師は「人間形成を推し進める力」としての心の問題を取り上げておられる。
心の本体はともかく心の現実の姿でもある喜怒哀楽などの感情は、本来の実相においてはどうなるのであろうか?
今「怒り」をとってみると、普通は、自分の不平不満や嫉妬反目によって起こってくる怒りも、一度方向を転ぜられて、自分自身に発せられると、発憤(発奮)となる。
孔子が「論語」の中で、「発憤して食を忘れ楽しんで憂いを忘れ、老いの将に到らんとするを知らず」といっているが、この怒りがなかったなら彼の学問を大成することはできなかったでしょう。
その憤りは、何者をも恐れぬ真実の勇気となり、人間が精進して人格を形成してゆくための根本の原動力になるものです。
「この怒りこそが人間が人間になるための根源的ないのちの泉なのです。」と述べられております。
(この項  要道)


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