ビジネスでの禅の効果を考察する

座禅はビジネスに効くのでしょうか。 禅をやっている経営者を調べると、こんな人物が出てきました。

  • スティーブ・ジョブズ
  • エリック・シュミット(グーグル)
  • 稲盛和夫
  • エヴァン・ウィリアムズ(ツイッター)
  • 松下幸之助

事例としてのジョブス

スティーブ・ジョブスのZENへの傾倒は有名ですが、具体的にどのような禅を実践していたのかは定かではありません。坐禅をしていたのか、参禅をしていたのか。どのような書籍を読んでいたのか。どのように禅を理解していたのか。興味は尽きませんが、彼の思想を端的に理解できるものは、彼が世に送り出したプロダクトということになります。真新しく、人間的で、融合的な感じ。型にはまらず、自由自在。とても単純で、かつとても複雑。ジョブスのプロダクトと禅の近似を考察してみましょう。

枯淡なデザイン、シンプルな世界

禅全体では、枯淡といった雰囲気を禅寺や庭園に見ることができますが、それをジョブスのプロダクトと重ねることができるかもしれません。一般的にジョブスのZENの栄影響はこの点、つまりシンプルなデザインに禅の影響を見る人が多いかと思います。実際禅では余計なものや余分なものを嫌って排します。この部分は禅宗の大きな特徴です。それは禅宗の端緒からの特徴です。

経緯としては、お釈迦様が始めた仏教が時が経つととも権威化したり、形式化したりと本質的でない部分がどんどん広がっていきました。教本もどんどん増えて、一生かかっても全部読めないほどに膨れ上がり、それでは誰一人として一生悟りを得られないという事態に陥りました。禅宗は、始祖を達磨としますが、お釈迦様がそうされたように、ただ静かに坐れば悟りは得られると考えます。教本は不要、仏像も不要、装飾華美な寺社も不要というわけです。これは道元の有名な只管打坐、ただ座れという言葉にも見ることができますし、禅寺と静かな風景にもみることができます。

山川草木悉皆成仏と、自然にあるものすべてがそのままで仏と考える仏教の基礎的な考え尾を禅宗は強調するので、自然の素朴な風景、山や川、感じられる風、手に取った岩に、深い宇宙を感じます。ジョブスのシンプルなプロダクトに、かえって深いテクノロジーや、使い込めるユーザビリティの深遠さを感じるなら、それは、禅僧が手のひらに落ちた楓の歯に、世界の拡がりを感じるのと同じことと言えるかもしれません。

雷雨のごとく

枯淡でシンプル、というだけでは禅もジョブスも言いつくしているとは言えませんよね。静けさだけでなく、激しさが禅にもジョブスにもあります。宗派の特徴を宗風といったりしますが、禅の宗風、特に臨済禅の宗風は、雷雨のごとき激烈な宗風とも言われます。革新的なプロダクトの提示や、そのマーケティングコミュニケーションは、臨済禅っぽく感じます。仏教は一般に穏やかで宗風といえますが、臨済禅では、時にそれが正しいのであれば、鮮烈であってもすなわち是とします。

例えば、師匠のほっぺを叩いてしまったり、猫をぶった切ってしまったり、小屋に火をつけてしまったり。一見するとハチャメチャな話がたくさんできます。ジョブスの生き方や逸話も、ハチャメチャなところがありますし、雷雨のような生涯といった例え方もできますよね。そう、ジョブスの宗風はまさに禅的です。

型にはまらず、自由自在

ジョブスのプロダクトは斬新で、何かの模倣であると指摘するのは難しいですよね。もちろん、既存の色々な技術やデザインを組み合わせて新しいものを生み出しているともいえるので、まったくの革新ではないという指摘も正しいかと思います。いずれにしても、ジョブスの革新は禅的ともいえます。禅は、古い由緒ある寺で、昔ながらの伝統的な儀式をこなす宗派ではありません。

むしろ、そういう思考停止の前例踏襲的な態度をひどく嫌います。臨済は、「仏にあっては仏を殺せ、師匠にあっては師匠を殺せ、母にあっては母を殺せ」と強烈な表現でこのことを戒めました。仏さまも、師匠もお母さんも、誰にとっても大事な人のはずでこれを殺してしまうとは大変ひどいことで、これを勧奨するとは、仏僧失格の大失言です。もちろん、臨済はそのようなつもりで殺人を命令したわけではありません。

これは禅的な言い回しで、誤解を生むようなどぎつい表現で人の関心を引きつけながら、鋭く本質への直面を迫るという狙いです。仏さまがどうだったとか、師匠がこういってるとか、親がどう思うとか、そんなことは一切関係ない、あなたにとっての本質は何だ、自ら対峙せよ、と励ましてくれているわけです。

これを実践しようとすると、全身全霊で事にあたることになりますし、誰かの前例や発言や示唆を踏襲して、失敗してもそれを言い訳にできるといった甘えができなくなるので、大変な緊張感がいきなり訪れることになります。ジョブスのプロダクトはとても「殺仏殺祖」的といえます。ある種の緊張感があって、前例がないものであり、時に失敗もあったりするし、でも言い訳しないということになります。そして失敗作も含めて何かすがすがしさを覚えるものです。

そう、ほとんどの人は、ある種の惰性を程度の差こそあれ、多く引きづって生きていますから、全てを振り払って作ろうとするジョブスの姿勢やプロダクトには、我々は憧れのようなものを感じてしまうのですね。臨済含め、禅の傑僧たちの言葉や逸話には、同様のすがすがしさやカッコよさがあります。まさに、ジョブスは禅的と言えます。

直視する

禅では、「そのものを見よ」「そのものになりきれ」と言われます。「そのものを見よ」とはまさにそのものに迫れということであり、周りの装飾や雑音を取り除いて本質に迫れ、というわけです。まさにジョブスのプロダクトは、機能がユーザーのやりたいそのものと重なっている部分がありますよね。

無駄や機能や、これまであったから付けておこうというような惰性の機能設計はしないわけです。また、「そのものになれ」と、客観的な態度を否定して、主体と客体の一体化を迫ります。ジョブスのプロダクトは人間工学的である、とも言われ、そのユーザーインターフェースの心地よさが大きな特徴なのですが、まさにジョブスのプロダクトを使うと、ユーザーの身体と一体化する、或いはユーザーの身体が拡張するのような感覚を覚えます。

まとめ

いかがでしたでしょうか。禅の教義に触れる機会は多くの人にとってあまりないかと思いますが、ジョブスのプロダクトの触れる経験は多くの人がしているはずです。そこには禅っぽさが結構あるんです。自分でも禅をものにして、プロダクトの開発や会社経営に役立ててみたい、という気持ちになってきませんか。ジョブスのプロダクトを見て、その皮相にとどまらずにその本質を手本としたいと考える人は、禅のセンスがある人と言えるかもしれません。ぜひ、専門道場へいらしてください。


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